ケンドリック・ラマーの生い立ち【Kendrick Lamar】

Rap Music

ケンドリック・ラマー・ダックワース(Kendrick Lamar Duckworth)は1987年6月17日、カリフォルニア州コンプトンでケニー・ダックワース(Kenny Duckworth)とポーラ・オリバー(Paula Oliver)の間に生まれた。先進的な音楽スタイルと社会的意識の高いソングライティングで知られ、同世代で最も影響力のあるヒップホップアーティストの一人とされる。10代の頃からK.DotというMCネームで活動。地元の注目を集め、2005年にTop Dawg Entertainmentとレコーディング契約を結ぶに至った。

ケンドリック・ラマーの両親

ケンドリックの父親は悪名高いギャング『ギャングスター・ディサイプルズ(Gangster Disciples)』と関わっていた。ケンドリックの母ポーラはケニーに対して最後通牒を突きつけ、二人はシカゴからカリフォルニア行きの列車に乗り、当初はサンベルナルディーノに向かう予定だったが、ケンドリックの叔母ティナがコンプトンに住んでいたため、予定を変更しコンプトンに向かった。

コンプトンに辿り着いた2人は、ティナが用意したホテルの部屋で暮らし、ポーラはマクドナルドで働くことにした。車やモーテル、近所の公園で寝泊まりして3年を過ごした後、2人は最初のアパートを買う十分なお金を貯めることに成功し、ケンドリックを出産した。ケンドリックの両親は彼をR&B音楽グループ、The TemptationsのEddie Kendricksにちなんで名付けた。しかし、彼らの家庭環境は良い状況ではなかった。ケンドリックは幼い頃、父親が家族を養うためにストリートで稼いでいることを知り、母親の兄弟の多くがギャング集団『コンプトン・クリップス(Crips)』のメンバーであることを知った。ケンドリックは不安定なストリート活動に囲まれて育ったが、多少の影響を受けるも大きな被害を受けることはなかった。彼は優秀な生徒で、物語や詩、そして歌詞を書くのが好きだった。

ストリートの抗争を超えて輝く、ケンドリック・ラマーの成長と軌跡

ケンドリックの家族はストリートの抗争に関わっていたが、彼は注意深く物静かで少年の頃から鋭い観察眼を持ち続けていた。また、コンプトンで育ったケンドリックの友人の多くはギャング集団『ブラッズ(Bloods gang)』のメンバーだったが、ケンドリックはギャングには入らなかった。コンプトンのセンテニアル高校(Centennial High School)に通い、K-Dotというニックネームを名乗り、ラッパーとして活動を開始。16歳になった2003年、彼は”Youngest Head Nigga in Charge”というミックス・テープをリリースし、南カリフォルニアだけでなく、世界各地で多くの関心を集めた。

16歳になった2003年、ミックス・テープ”Youngest Head Nigga in Charge”をリリースした

このプロジェクトは、カリフォルニアのインディペンデント・レーベルとして知られ、メジャー・レーベルともパイプのあるTop Dawg Entertainmentとのレコード契約をもたらした。ケンドリックはその後、”Training Day”(2005)と”C4″(2009)という2つの評価されたミックステープをリリース。また、Jay Rock、Ab-Soul、Schoolboy Qなどの他の新進気鋭の西海岸ラッパーと活動を続け、独自のラップグループ、”Black Hippy”を形成した。

ドクター・ドレーとの出会い

2010年、ケンドリックはK-DotというMCネームを捨て、自身の名前を使い始めた。また、4作目のミックステープ”Overly Dedicated”を発表。同年、ケンドリックはTop Dawg Entertainmentから初のインディーズ・フルアルバムをリリース。タイトルは”Section.80″で、iTunesのみでリリースされた。

ツアーや楽曲制作などでYoung Jeezy, The Game, Talib Kweli, Busta Rhymes、Lil Wayne.といった人気ラッパーとのコラボレーションを続けた。ヒップホップ界で最も尊敬され、影響力のあるプロデューサーの一人であるDr.Dreは、この若いアーティストを自分の下に置くことにした。音楽とビジネスの両面で彼のメンターとなったのだ。

ケンドリックへの注目が高まるにつれ、ドクター・ドレーは、Top Dawg Entertainmentとのジョイント・ベンチャーとしてAftermath Entertainmentと契約した。Aftermathはメジャー・レーベルのInterscope(ユニバーサル・ミュージック系)の配給を受け、マーケティング、セールス、流通の面でケンドリックのキャリアを次のレベルに引き上げる力を持つことになった。学校では成績の良い、物静かで観察力のある少年だった男が、ラップ界の新たなスーパースターになる準備が整った。

メジャーデビュー”good kid, m.A.A.d city”

2012年7月31日、TDE、Aftermath、Interscopeはケンドリックのメジャーデビューアルバム”good kid, m.A.A.d city”からのリードシングルとして”Swimming Pools (Drank)”を発売した。Jerome Dが監督したこの曲のミュージックビデオは、2012年8月3日に106 & Parkで初公開された。この曲はビルボードホット100で13週目の17位を記録し、徐々にチャートを上昇した。

2012年8月15日、歌手のLady Gagaは、ケンドリックのデビューアルバムのために “PartyNauseous”という曲のレコーディングをしたとツイッターで発表。ガガは大々的に宣伝したが、リリース直前になってお蔵入りになった。この曲を巡ってケンドリック陣営との方向性の違いを理由に挙げているが、決してケンドリックのせいではないと強調した。

2012年10月、ケンドリックは待望のメジャーデビューアルバム”good kid, m.A.A.d city”をリリースし、賞賛を浴びた。”Swimming Pools (Drank)”や”Poetic Justice”などのヒット・シングルを引っ提げてアルバムのプロモーションの一環として”Saturday Night Live”、”Late Night With David Letterman”、”Late Night With Jimmy Fallon”など、アメリカの主要テレビ番組に出演。これらの活動により、ハードコアなヒップホップ・ファンだけでなく、学生やオルタナティヴ・ロックのファンの間でも彼のファン層が固まった。

ケンドリック・ラマーの人生と音楽は、彼の両親が辿った困難な選択と成長の物語がバックボーンにある。シカゴでの苦境からカリフォルニアへの旅が始まり、ケンドリックの両親、父ケニーと母ポーラの勇気によって新たな道が切り開かれた。父はストリートの厳しい現実に直面しながらも、家族の未来を守るために困難を乗り越えた。

ケンドリックは家庭環境から影響を受けつつも、自身の芸術的な才能と観察力を磨いた。幼少期から物語や詩、歌詞を書くことに情熱を注ぎ、地元のラップシーンでK.Dotとして活動を開始。その才能は次第に注目を集め、Top Dawg Entertainmentとの契約を手に入れる道を切り拓いた。

ケンドリックの音楽は、コミュニティの問題や個人の経験を深く掘り下げ、社会的な意識を高めるメッセージを伝えている。”good kid, m.A.A.d city”などのアルバムは、彼の成長と内面の葛藤を映し出す重要な作品となっている。ケンドリックのラップは彼の両親の勇気と決断を称えると同時に、コミュニティ内の課題に対する彼自身の洞察力を示している。

両親の選択がケンドリックの人生に大きな影響を与え、彼の音楽が多くの人々に感銘を与えている。ケンドリックの成功は、家族の結束と個人の信念の力を示す鮮明な証となった。ケンドリック・ラマーの軌跡は、苦難を乗り越え、自己表現を通じて社会に対する影響力を行使する力強い物語である。

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